エリクソニアン・アプローチとは

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エリクソニアン・アプローチとは

ミルトン・H・エリクソン( 1 9 0 1 ~ 1 9 8 0 年 )が行った心理療法の総称。

クライアントの無意識に内在するリソース(資源)を、会話やトランス技法を使って活性化し、問題を、それまでとは異なる方法で経験するように方向付けをしていくアプローチです。

エリクソニン・アプローチの前提
・全てのクライアントは、ユニークで個別の存在である。
・一見価値がなく、不要だと思えるどんな振る舞いにも、それを支える能力と、何らかの目的(意図)がある。
・視点が変化すれば、「問題」と捉えていたことを「能力」として活かせる。
・「問題」となるのは、振る舞いではなく、その人の思い込みや思考の一般化である。

捉え方のサイズを変えることが、振る舞いの可能性を飛躍的に拡げる機会となります。

以下、代表の神 崇仁(こう たかひと)による談話形式にて、私たちが考えるエリクソニアン・アプローチについてご紹介いたします。

ミルトン・H・エリクソンとは

ミルトン・エリクソンは、臨床催眠の使い方に関しては20世紀随一の権威でした。
また、医師としてさまざまな症例を治癒し、20世紀最高の心理療法家と言う人もいます。

『催眠』は、かつてメスメルやスヴェンガリなど、さまざまな誤用、誤解があり、精神医学の父であるフロイトが放棄したことで、西洋では医学の分野から追い払われたかのように見えた無意識を活用する技術です。
エリクソンは治療的催眠として高度に洗練させ、彼の好奇心に溢れた催眠の科学的探究の結果、医学界にその効果を認めさせるのに重要な役割を担った存在です。

80歳でなくなるその日まで300本を超える催眠に関する論文を書き、3万人を超える被験者に催眠を行ったとされています。

また、数多くの弟子やフォロワーを生んだことでも知られています。

エリクソンは、単に医者として学術的に貢献しただけではありません。
『傷ついた治療者』と呼ばれ、自らが様々な障害を持って生まれ、そしてポリオによる全身麻痺からの回復、人生の後半での後ポリオ症候群など厳しい身体症状と共に生きることを通して、「生きる勇気とは何か」、「あきらめ」という枠組みからの解放という多くの人々を奮い立たせる生き方を私たちに教えてくれています。

彼はさまざまな催眠的技法を編み出しましたが、中でも患者の症状を利用する方法や、患者の関わり方までも活用する許容的で、直接指示をせずに緩やかに催眠に誘導し、治癒を導き出す「間接誘導」に彼自身の症状、人生との関わり方が強く現れています。

彼の存在はとても大きく。彼の死後、かつての弟子や新たなフォロワー達が次々と精神医学や心理療法に新しい流れを生みだしています。

心理療法とは

「心理療法とは何ですか?」

ミルトン・エリクソンについて、エリクソンに直接学んだことがあるスティーブ・アンドレアスから聞いた話です。

彼は穏やかに話す人なので参加者を部屋の近くに座らせます。
それから 参加者を一人一人見て、長い間のあと、この質問をしました。

「心理療法とは何か」

参加者は答えるしかなくなって、ある人は、社会・精神力動学との関係を説明し、それら全てが、社会基盤でどう作用するかに関連させて、質問に答えましたが、エリクソンは「違う」と答えました。
別の人が、個人の内的プロセスやパートや自我の側面から説明しましたが、エリクソンは、それについても「違う」と言います。

一人ずつ順に答えていきスティーブ・アンドレアスの番になって初めて、全員が、正しい答えに気づいたのです。

「わかりません」と言う答えです。

全員が答えを発表し終えると、エリクソンが彼らに向かって、
「心理療法とは二人が一緒になって相手が何を求めているのか見つけ出す事だ」
と言いました。

心理療法とは、様々な関係性の場において、いったい何がその人にとって可能なのかということを探求していくことです。

それは、
道筋がきまっているわけではなく、
ゴールが決まっているわけでもなく、
癒しが必要というわけでもなく、
カウンセラーやセラピストやコーチが、結果を出そうというような期待に基づくものではなくて、
クライアントにとって何が可能なのかという『可能性に基づく』ものであったらいいなと僕は思います。

エリクソニアン・アプローチとは

「エリクソニアン・アプローチについて説明してください。」

「エリクソニアン・アプローチとは何か?」というのを一言でいうのは難しいと思います。
 
それは、
「人生とは何ですか。」
「美しい芸術とは何ですか。」
と聞かれても答えるのが難しいことのように、僕にとっての「エリクソニアン・アプローチとは何か?」と聞かれたら「美しい芸術」と答えるでしょう。
 
その「美しい芸術」とは何かといえば、例えば、絵もあるし、彫刻もあるし、書だって、芸術になります・・・
 
そうした「美しい芸術」を一言でいうのは難しいけれども、人が「ここしかない」と思っているようなところに、実は道がたくさんあるということに気づいていくプロセスを様々なやり方で探求していくのが「エリクソニアン・アプローチ」ではないかと思います。
 

限定せずに開いていくということ、
そして取り除かずに包含していくということ。

 
そうしたことなのではないかなと思います。

それは、何か道筋があって、その道にある何かの「障害」を取り除こうというものではないでしょう。
そもそも「障害」があると感じるということは、道はフラットであるという前提があるように感じます。

きっと、エリクソンは、そういう風には捉えていなくて、エリクソンが語る馬の話のように、

エリクソンが子どもの頃に、
馬に乗って道を進んでいると、
馬が寄り道をしようとするのを手綱を引っ張ることで、
馬がまた元の道に戻り進みはじめる・・・

そんなことを繰り返していると、
今度は、寄り道しているのかなと思って進んで行くと・・・
ある農場に入って、そこがその馬のお家だった。

というストーリーがあるように、道はきっと、ただフラットなわけではなく、人は寄り道をするものだと思います。そんな風に回り道や、寄り道などが人は好きですよね。
 
障害物や、道にある ”でこぼこ” のようなものは、そもそも、その道に備わった存在であって、その人が、それを障害と思うよりも、そういうものとして、取り込んで行く考え方、あるいはそうした「関わり方」を持ち、人と関わっていくというのが、「エリクソニアン・アプローチ」なのではないかと僕は思います。
 
これは、僕の考え方であって、エリクソンの弟子の方達が、どのように言うかは分かりませんが、少なくとも、
 

取り除かず、包含して、
決まった道よりも、道を開いていき、
可能性を開いていく

 
というのが「エリクソニアン・アプローチ」だと思います。

トランス/催眠とは

「トランス/催眠について説明してください。」

トランスというのは日常よく起きる状態で、あるものにどっぷりと注意が集中していることを言います。
 
ですから、TVを見て集中しているときは”TVトランス”だし、何かのフローの状態、スポーツをしてゾーンに入っているのも、1つのトランスの状態だと思います。
 
それらの違いは、質の違いと言えます。
リラックスしている状態や、TVを見ている状態もトランスなのですが、いわゆるヒプノティックトランスは、変化とか変容を起こすような状態に、没入することだと思います。
 
リラックスしていても、心の変化が起きる訳ではありません。
マッサージをして気持ちが良いというのは、とても大事ですし、リフレッシュというのは、とても大切なことですが、それは変容を起こすような状態ではないと思います。
 
また、”TVトランス”も、没頭していますが何も起こりません。
さらに、スティーブン・ギリガンたちは、”TVトランス”というのは、あるサジェスチョンが入ると言います。
それは何かと言うと「もっと買え!」という・・・
いわゆるTVを見ていて、トランスに入るというのは、「もっと買え!」という情報が入ってきます。
そもそも、TVというのは商業をベースとしていますので、マーシャル・マクルーハンが呼ぶ、いわゆる「クールなメディア」であり、どんどん情報がインストールされていきます。
つまり、TVを見ているときのトランスは「買え、買えトランス」なのです。
 
映画に没入するというのも1つのトランスですが、あの映画の中には、監督が意図した感情とか、ある主義みたいなものに対して、のめり込んで行くプロセスがあります。
別の意味で言いますと、例えば、ティクナット・ハンなどが、映画というものは、その映画の中のメッセージが、暴力的なメッセージや、怒りのメッセージだと、そうした映画を観ているなかで、怒りがたまっていくという言い方をします。
 
トランスの中で注意集中して、無批判に受け入れていくというプロセスが起きると、あるいは無防備にそれを受け取っていくというプロセスが起きたときには、映画の内容によっては、否定的なことにもなるでしょうし、TVのように「買え、買えトランス」が、無批判に入ってくる可能性もあります。
 
そして、マッサージというのは、とてもリラックスした、とてもニュートラルな、リフレッシュの状態、身体のハリやコリ等をとっていくという意味では、
元に戻っていくプロセスだとも言えます。
 
そして、「療法的トランス」という、エリクソンの言うトランスとは、注意集中の状態で、何かを学習して、そして変容を起こして行くというプロセスです。
 

何かを学習していくというのは、
 何かを教えてもらって得られるということではなく、
 かつて、今まであったものの中から、
 自分の中で、使いたいと思われる場面において、
 それがどのように使っていけるのかということを、
 トランスという状態を用いて、
 過去にあるもの、あるいは未来にあるもの、そんな様々な要素というものに、
 移動していきながら、使っていくこと
を学ぶ状態だと思います。

 
このように、トランスには質の違いがあります。
 
大きなくくりで「トランス」と言われているものは、ダンスを踊っているとき、ヨガをしているとき、または、サッカーをしているときもトンラスと言えると思います。
また、TVを没頭して見るのもトランスです。
 
様々なトランスという中にある1つの状態が「催眠」というもの。そして、トランスというものの中にある1つの文脈が「催眠」と言われるものです。
 
厳密に言えば「催眠」と「トランス」は違います。
 
トランスには、マイナスになるものもあれば、ニュートラルになるもの、そしてリフレッシュするものもあります。
 
そして、変容していくトランスがあるという風に分けていくと、理解がしやすいのではないかと思います。